第二次スーダン内戦
1989年6月30日、オマル・アル=バシール准将がイスラム主義組織民族イスラム戦線 (NIF) と連携して無血クーデターを成功させた。バシールは、「革命委員会」を設置して非常事態を宣言し、自ら元首、首相、革命委員会議長、国防相に就任し、NIFの主張に沿ったイスラーム化を推進した。最高機関だった革命委員会は1993年10月、民政移管に向け解散し、同委員会の権限は内閣に委譲されたが、バシールが首相を兼任したまま大統領に就任した。1996年3月の議会選では欧米諸国との関係改善を図るバシール大統領派が圧勝し、バシール政権が存続した。
1998年5月、政党結成の自由などを含む新憲法の可否を問う国民投票を実施し、96.7%が賛成により成立、1989年以来禁止されていた政党活動が解禁となった(政党登録開始は1999年1月)。しかし、バシール大統領は大統領の権限縮小を狙う国民議会のトラービー議長との確執から、1999年12月に非常事態を宣言し国民議会を解散、内閣も総辞職し、2000年1月に親トラービー派を排除した新内閣が発足、トラービーはバシール政権の与党「国民会議」(NC, NIFを母胎とするイスラム主義政党)の書記長を解任された。
トラービーは新党「人民国民会議」(PNC) を結成し対抗したが、12月の議会選、大統領選では野党はボイコットし、バシール大統領とバシール派政党が勝利した。2001年2月、PNCとSPLAがスイスのジュネーブで第二次内戦終結や民主化に向け協力するとの覚書に調印したため、政府はトラービーらを逮捕して対抗した。
バシール大統領は2002年8月19日、小規模な内閣改造を実施し、イスラム主義中道派のウンマ党 (UP) の分派メンバーを閣僚に登用した。さらに11月30日には中道リベラル政党「民主統一党」(DUP) の分派メンバーも入閣させるなど、野党勢力の取り込みを図ることで、SPLAとの和平交渉と併せて柔軟姿勢を示した。2005年1月9日には、バシールとSPLAとの間で包括和平、半年後の暫定政府発足について合意に達した。
2005年7月9日、バシールを大統領、SPLAのガラン最高司令官を第一副大統領とする暫定政府が発足した。暫定政府が6年間の統治を行なったうえで南部で住民投票を実施し、北部のイスラム教徒系政権と南部政府の連邦を形成するか、南部が独立するかを決めることになった。
7月30日、副大統領となったばかりのガランが、ウガンダ訪問からの帰途に事故死(ヘリコプターが悪天候のため墜落したとされる)し、これを聞いた南部住民数千人がアラブ系住民を襲撃するなどの事件が発生。また、SPLAを束ねてきたガランの死は、SPLA内部の権力争いにつながる可能性を帯びている。さらに、SPLAは南部側の政府代表といってもそのうちの旧主流派はディンカ族中心であった。南部のヌアー族が政権の支援を受け、SPLAへの攻撃を開始するとの憶測も流れた。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
1983年に勃発しました。多くの犠牲者が出たようで大変心が痛みます。
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